リレー小説


 グラウンド横の自販機には、いつも同じ缶ジュースが並んでいる。私は野球部の野太い声を背に、ぴかぴかに光った500円玉を自販機に放り投げてコーラのボタンを押す。昨日や一昨日と同じこの動作に、私の口からは勝手に薄い息が漏れた。
 夏の重たく湿った空気は私の肌ときちりと整った制服を密着させて、ひどく不快だ。肩まで伸ばした黒髪も、地面を見つめれば汗と共に落ちて影を作り、さらに不快感を増した。グループの女の子達のように髪の毛を弄ることもなく、ただ真っ直ぐに無感情に伸ばした髪の毛たちは私を攻めるように容赦なく顔面に張り付く。風に揺られることすらなかった。
 人数分のコーラを持つと、ようやく冷たさが肌に伝わり汗を拭う余裕が生まれた。はやく持っていかなければ何か文句を言われるかもしれない。放課後も有限なのだ。私達学生に無限は無い。
「人間に、無限なんてないか」
 ぽろりとこぼれ落ちた言葉は、グラウンドで活動に励む野球部の声にあっけなくかき消され泡のようにパチンと無になった。


 私は常に寄生して世を渡ってきた虫の話をよく知っている。小さい頃、よく通っていた図書館ではその本だけを読み、夕焼けが世界を覆うまである挿し絵の部分をじっと見つめていたのだ。これは、私である。これの正体が、私、内田詩織という人間なのである。
 高校生になり、新たな団体行動を覚えた頃にはもう遅く、そこに私の新しい道はすでになかった。塗装された本来の道を眺めながら、私は常に彼女たちにくっついて本来とは反対方向の道へ歩いた。そこには何もない。毎日500円玉を握りしめて人数分のコーラを買うことだけが、決定されていた。すぐ隣には塗装され、今にも消されようとしている道が見えているが、今日も私はそれを横目にコーラの道を歩く。腕のなかにある3つのコーラをいかに揺らさず部室まで持っていけるか、それだけが今の私に課せられたものであった。

「あれ」

 色素の薄いツインテールが視界の端にうつり、私はふと足を止めた。小柄な体はさらにその身を丸めて渡り廊下の端に座り込んでいる。夕焼けを浴びた髪はキラキラと反射し、どこか銀色にすら見える。
 汗を拭うことも忘れ、その背中をぼんやり見つめていると彼女はゆっくりと、まるで映画を撮っているかのようにじっくり振り返り、猫のような美しい瞳を私に向けた。その瞳は女というカテゴリーの中でも特に大きく、まるですべてを吸い込んでしまいそうだ。
 私は、彼女とは一度も話したことがなかった。同じクラスとは言え、知っていることと言えば名前ぐらいで、彼女が毎日何をして何を考え行動しているのかはまったくもって謎である。いつかは保健室にいたり、屋上にいたりするらしいとの噂だったが、私は特別彼女、白糸蓮という女の子を注目することはなかった。
 だが今この時、私はなぜか彼女の瞳に食われることがたまらなく心地良いことだと分かっていた。
「なに、してるの?」
 白糸さんはゆっくり立ち上がると、自身の指を目の前にかざして「ち」と言った。その声は高く、ぼんやりと鳥の囀りを思った。立ち上がっても彼女は私の肩あたりまでしか背がなく、腕を思いきり上に持ち上げて私に見せようとしてきた。視界に入れると、確かにそれは「血」であった。
「怪我、したの? 保健室行く?」
「ううん、あんたが来たからもう大丈夫」
 白糸さんはこの世のものではないかのように、うっすらとたまらなく綺麗に笑った。薄暗い中に浮かぶ三日月のように、瞳はギラギラと静かに湖の中で揺らぐ。少し長い彼女の前髪の奥で目が私を捉え、そのまま私の視界は赤く染まった。いつの間にかそこには彼女の指があった。
「あんた、ちょっとおもしろい」
 白糸さんの指が私の唇に押し当てられる。いつのまにか野球部の声は止んでいた。真夏の肌を撫でるような蒸し暑ささえ、ここにはなかった。汗一つかきそうにない白糸さんのふんわりとした長いツインテールが視界の端でずっと揺れている。私は彼女の指を唇に押し付けられながら瞼の裏に、塗装された例の道を見ていた。
「今度はあんたのを飲ませてほしいな」
 私の頬を軽く撫でた後、白糸さんは落ちたコーラを拾って思いきり飲みだした。その細い首にコーラが流れていくのをただじっと眺めて、私は心臓が高鳴るのを感じていた。もうあのコーラを彼女たちにいつも通り届けることはできない。はじめてだった。毎日毎日続くこの道がいきなり壊れるのを私は予想もしていなかったのである。
「あんた、やっぱりおもしろい」
「どうして?」
「うーん、虫のくせに肉が好きそうだから」
 彼女は飲み終わってしまったのか、空になった缶を私に渡してその小さな体で私に思いきり抱きついた。小さくてふわふわとしていて甘い匂いが鼻をくすぐる。なぜかいきなり抱きつかれても、私は少しも嫌ではなかった。なぜか彼女の自由な行動そのものが、手放したくないような愛しさに包まれていた。
「おいしいでしょ?そんなものよりずっとおいしいよ、ね?」
 私は舌先に残った彼女の血の味を思い出して、小さく息を吸った。





刹那